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ジョン・ケリーのユダヤ的出自


中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)

 前稿「ジョン・ケリーをめぐる女性たち」
http://www.yorozubp.com/0402/040221.htm
を書いたあと、ケリーに関するより詳しい情報を入手することができたので、それに基づいて前稿に補足と訂正を行ないたい。主たる出典はインターネット百科事典Wikipedia: http://en.wikipedia.org/wiki/John_Kerry である。たいへん興味深い詳しい情報なので、英語のできる方はぜひご自分でお読みいただきたい。そのほかの情報源もまじえて、以下にケリーの出自について述べてみたい。
 ジョン・ケリーはユダヤ人の血をひいていた。
 ケリーの父方の祖父は、フリッツ・コーンというチェコ(当時はハプスブルク家オーストリア帝国の一部)生まれのユダヤ人であった。このことを明らかにしたのは、今年2月2日の『ボストン・グローブ』紙である。グローブ紙は、2002年、地元出身の上院議員が大統領選に出馬する予定と聞いて、ケリーの先祖の調査を行なったのであった。
 ケリーという名はアイルランド系だと思われていたが、祖父のフリッツ・コーンがオーストリア在住当時、カトリックに改宗し、フレデリック・ケリーと改名したのである。フリッツは1873年生まれであるが、彼の生きた時代は、ヨーロッパで反ユダヤ主義が高まった時代であった。シオニズムの提唱者テーオドール・ヘルツルは1860年生まれ。ヘルツルの死後、中欧におけるシオニズムの指導者になったマルティン・ブーバーは1878年生まれである。
 ハプスブルク帝国の主流派宗教はカトリックであった。反ユダヤ主義を避けるために、コーンがカトリックに改宗したのは当然の選択であった。1902年にアメリカに移住したフレデリック・ケリーとその妻イダは、子供をカトリック教徒として育て、自分たちのユダヤ的出自を隠蔽した。ヨーロッパの反ユダヤ主義に苦しんだユダヤ移民の中には、こういう人々が少なくない。
 フレデリックは、息子リチャード(ジョンの父親)が6歳のとき、銃で自殺した。原因は事業の失敗である。
 父を失ったリチャードの幼少期、青年時代は苦労が多かったものと思われる。そのリチャードがどういうわけか、名家の令嬢ローズマリーと結婚することができた。
 リチャードの妻、つまりジョンの母は、ローズマリー・フォーブス・ケリーといい、フォーブス家の娘としてパリで生まれ育った。フォーブス家は、雑誌『フォーブス』でも有名な大財閥である。二人は、リチャードがブルターニュ地方のサンブリューという海岸の町を訪れたときに知り合った。
 母方の祖父のジェームズ・グラント・フォーブスは上海生まれの銀行家で、その妻はマーガレット・ティンダル・ウィンスロップである。ウィンスロップ家は、イギリスからマサチューセッツに入植したピューリタンの一族で、アメリカの名家中の名家の一つである。この家系は、フランクリン・ルーズベルト、ジェーン・アダムス、カルヴィン・クールリッジ、ブッシュ大統領一族とも縁戚関係になる。
 ケリー家とフォーブス家の家格の違いを考えると、この結婚はきわめて不自然な感じがする。二人がなぜ結ばれることができたのか、その間の経緯は今のところ謎である。
 ジョン・ケリーが親戚から、自分の祖母のイダがユダヤ人であるということを知ったのは1980年代の終わりであった。彼は自分の出自を知りたいと望み、オーストリアに行ったおり、ケリーという名のユダヤ人を捜したが、当然見つからなかった。1990年代の終わりになってジョンは、癌で死期が近づいた父リチャードから、祖父が自殺したことを教えられ、衝撃を受けた。
 不思議なことに、ジョンの弟のキャメロン・ケリー(法律家)は、ケリー家のユダヤ的出自を知らずに、ユダヤ女性と結婚し、すでに1983年に自分もユダヤ教に改宗していた。先祖の血に導かれたとしか言いようがない。
 ちなみに、民主党の候補者であったリーバーマン、クラークもユダヤ系。ディーンは夫人がユダヤ系で、子供はユダヤ人として育てているとのことである。アメリカにおけるユダヤ系の強さにはあらためて驚かされる。
http://www.dsz-verlag.de/Artikel_04/NZ09/NZ09_2.html

 父リチャードは第二次大戦中はパイロットに志願したが、戦争後は外交官になった。ジョンは父とともにスイスとフランスで数年過ごし、フランス語に堪能になった。
 学生時代、ケリーはジャックリーン・ケネディの妹とつきあい、彼女を通してケネディ大統領と個人的な面識を得た。ジョン・フォーブス・ケリーのイニシャルは偶然にもJFKで、ケネディ大統領のそれと同じになる。彼はJFKと署名するほど、ケネディに憧れていた。
 アメリカの大統領はこれまで大部分が、白人男性のプロテスタント、いわゆるWASPで、カトリックのケネディ大統領が唯一の例外であった。2000年の大統領選挙で、ゴア候補がユダヤ系のリーバーマンを副大統領候補に指名したとき、大きな驚愕を招いた。もしケリーが大統領になれば、アメリカ史上初のユダヤ系大統領ということになる。もっとも、ケリーはカトリックなので、ユダヤ人とは言えないであろうが。いずれにしてもWASPではない。彼のユダヤ人としての血筋とカトリック教が、選挙戦にどのような影響を及ぼすか、興味深いものがある。
 ケリーはエール大学時代、「スカル・アンド・ボーンズ」という学生組織に加わって、のちにアメリカ上流社会のメンバーとなる人々と知己になった。このグループの友人の一人を通して、最初の妻ジュリア・ソーンと知り合った。(この学生組織については、あとで詳しく触れたい)

 さて、Wikipediaの情報の執筆者によれば、「ニュースマックス」が掲載した、ケリーとジェーン・フォンダが一緒に写っている写真は、デジタル的に作成された偽写真である(元の写真を撮った写真家が証言)。さらに、ジェーン・フォンダはこの反戦集会に参加していないとのことである。ケリーを攻撃するために、こうした嘘の情報がインターネットを通じてばらまかれているそうだ。
 だが、「ニュースマックス」はこの写真をまだ撤回していない。
 この写真に触れていることから、この記述がごく最近書かれたものであることがわかる。Wikipediaの情報は、全体的に見てケリーに好意的な立場で書かれている。虚実いりまじった激しい情報戦が行なわれていることはたしかで、Wikipediaの記述も情報戦の一部なのであろう。(続く)

 中澤さんにメールは naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp

ブッシュ、ケリー、どちらもメンバーだ

「スカル・アンド・ボーンズ」を覆うカーテン

2004年03月05日(金)
中澤英雄(東京大学教授・ドイツ文学)

 民主党の大統領候補者ケリーは、エール大学在学中に「スカル・アンド・ボーンズ」(Skull and Bones 頭蓋骨と肢骨。以下ではS&Bと略記)に入っていた。
 S&Bは、ドイツの学生クラブをモデルに、1832年にアメリカの名門大学エール大学に作られた秘密の学生クラブで、「毎年4年生の中から最も優秀な15人が選出されその会員となる」と言われている。ブッシュ大統領も、その父も祖父もS&Bのメンバーであった。ブッシュはどう見ても優秀な学生ではなかったから、優秀な学生だけではなく、名家や有力者の子弟も入れるようである。
 筆者は見ていないが、最近、日本のテレビでもこの秘密組織について報道された。
http://bbs1.com.nifty.com/mes/cf_wrentC_m/FTV_B001/
wr_type=C/wr_page=2/wr_sq=04011412553607067241

 筆者がこの組織の存在を最初に知ったのは、トム・ハートマンの「民主主義が破綻するとき――歴史の警告」という論説によってであった。これを読み進めていくうちに、読者は「国のリーダーを自認する男」が誰であるかを知って驚くであろう。
http://www.ribbon-project.jp/SR-shiryou/shiryou-14.htm
 秘密結社ということで、S&Bは陰謀論者の想像力をかき立ててきた。インターネット上にはそういう情報があふれている。どこまでが真実でどこからが想像なのか、判定は難しい。
 B級スリラー映画『ザ・スカルズ』はS&Bを材料にした映画である。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005S7GE/
ref=sr_aps_v_3/249-0244702-9219541
 この映画は2000年、つまりブッシュが大統領になった年に制作された。映画としては失敗作であるし、それまでS&Bについて噂されてきた以上の情報は含んでいないが、こういう映画が作られたということ自体が、ある種の変化を示している。
 2003年9月、自分自身もエール大学で別の秘密学生クラブに属していた女性ジャーナリスト、アレクサンドラ・ロビンスは、『墓の秘密』という、S&Bに関するレポートを発表した。これは、ロビンスが出版社からの依頼を受けて、メンバーへのインタビューも行なって書いた本である。ただしこの本には、メンバーの名前(インタビューされた人はすべて匿名)や、彼らが具体的にどのような政治的決定を行なってきたのかという、真に知りたい核心部分が欠けているとのことである。そのため、この本自体が、S&Bの「ダメージ・コントロール」のために、漏らしてもかまわない程度の情報を漏らしただけの本、という批判もある。
http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/
0316735612/qid=1077331340/sr=1-1/ref=sr_1_1/
104-0713378-4951120?v=glance&s=books

 筆者はこの本を注文したが、まだ入手できていない。読んだあとで、何らかのコメントをしたい。
 『墓の秘密』が発売されてから1ヶ月後、昨年10月にCBSが人気番組「60 Minutes」で、ロビンスと、やはりS&Bに詳しい作家ローゼンバウムにインタビューしながらS&Bについて報じた。(上述の日本の番組をこれを元にしているのであろう)
http://www.cbsnews.com/stories/2003/10/02/
60minutes/main576332.shtml

 「ジャネット・ジャクソン事件とムーブオン」でも触れたように、CBSがアメリカのエスタブリッシュメントの利益を守るテレビであることを考えると、この番組も、S&Bとはこういう組織か、とわかった気にさせて、それ以上は踏み込まなくさせるという「ダメージ・コントロール」である可能性が高い。
 ともかく、ロビンスの本やCBSの放送でわかった範囲では、この組織には、奇妙な入会の儀式があり、いったんメンバーに加わった以上、その組織については永遠に沈黙を守ることが要求され、卒業後もメンバーの間には強い結びつきがあるということである。ボーンズマン(S&Bのメンバー)は、アメリカの政治、経済、法曹、メディア界のトップの座を占め、隠然とした影響力を行使していると言われている。とくにCIAはボーンズマンの影響が大きいという。
 ボーンズマンであったブッシュ父はCIA長官であった。ブッシュ大統領は5人のボーンズマンを自分の内閣に入れている。
 Wikipediaによると、インターネット上で出回っているS&Bの名簿リストなるものは真実かどうかの確証はないという。ローゼンバウムが隠し撮りしたというS&Bの儀式のビデオも、本ものかどうかわからないという。
http://en.wikipedia.org/wiki/Skull_and_Bones

 ただし、Wikipediaの記述自体が「ダメージ・コントロール」である可能性もある。
 S&Bの周囲には何重にも厚いカーテンがかかっている。
 エール大学でブッシュの2年先輩のケリーもボーンズマンである。MSNBCテレビの「ミート・ザ・プレス」のインタビューで、彼は自分がボーンズマンであることを認めたが、それは大統領選では重要なことではない、とはぐらかしている。
http://www.prisonplanet.com/010104kerryadmits.html

 アメリカの社会学者ミルズは、アメリカ社会の政治権力は、彼が「パワー・エリート」と名づける、ごく少数者からなる集団に握られている、と述べた。ボーンズマンであるブッシュもケリーも、まさにパワー・エリートの一員である。大統領がブッシュからケリーに代われば、政治のスタイルは多少変わるかもしれないが、パワー・エリートの利益が優先されることは何ら変わらないであろう。違いは、武力中心のアメリカの単独行動か、国連や他国を巻き込んだ、一見ソフトに見える国際協調路線か、という手法である。
 結局、ブッシュ対ケリーの戦いは、パワー・エリート同士のwin-win game(どっちに転んでも勝ち)ということになる。最近、消費者運動家のラルフ・ネーダーが無所属での立候補を表明したが、これは、パワー・エリートの権力たらい回しに対する不満の現われなのであろう。もちろん、ネーダーがパワー・エリートに勝てる可能性は皆無である。

 中澤先生にメールは naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp

● 以下は、トム・ハートマンの「民主主義が破綻するとき――歴史の警告」から

────────────────────────

民主主義が破綻するとき――歴史の警告
トム・ハートマン


 アメリカではその70周年を知る人は少なく、マスメディアでもこれといった報道はなかった。しかし、ドイツ人は70年前の運命の日、つまり1933年2月27日のことをよくおぼえていて、全世界の市民がイラク攻撃反対の大きなうねりをつくった平和デモへの参加でその日を祝った。
 発端は、世界的な経済危機のさなか、政府が差し迫ったテロ攻撃についての報告を受け取ったことだった。ある外国の過激思想信奉者が、それまでにいくつか有名な建物への攻撃を試みてはいたが、メディアは泡沫事件と見てほとんど取り上げなかった。だが諜報機関は、その男がいつか大事件を引き起こすかもしれないと警戒していた。(歴史学者のあいだにはいまなお、諜報機関内部の謀反分子がテロリストに手を貸したのではないかという議論があるが、最近の研究はそれを否定している。)
 ところが、捜査官たちの警告は最上層部によって無視された。ひとつの理由は、政府が別なことに気をとられていたからだ。国のリーダーを自認する男が、選挙で過半数を獲得できず、国民の大半は彼が権力の座につくことを認めようとしなかった。一部の人にいわせると、その男は間が抜けていて、ものごとをシロかクロかで考えるマンガ的な人物であり、複雑かつ国際主義的な世界で一国を取り仕切る機微が理解できる頭の持ち主ではなかった。南部出身地の政治風土からくる粗野な物言いと、短絡的でおうおうにして挑発的な国家主義的言辞は、上流階級の人びとや外国の指導者たち、そして政府およびメディア内の教養あるエリートたちのひんしゅくを買った。しかも彼は若いころ、オカルト的な名称をもつ秘密結社に加わり、人間の頭骸骨と肢骨を使う怪しげな入門儀式を受けていた 。
 しかし、男はテロリストの攻撃があることを知っており(正確な時間と場所は知らなかったが)、その場合にどう行動するかをあらかじめ決めていた。国を代表する建物が炎上していることを側近から知らされたとき、彼は攻撃がテロリストによるものであると断言し、現場へ急行して記者会見を開いた。
「諸君はいま、偉大な歴史的瞬間をまのあたりにしている」男は焼け焦げた建物の前で、国中のメディアに囲まれて宣言した。その声は高まる感情に打ち震えていた。「この炎ははじまりにすぎない。まさしく神の合図である」彼は好機に乗じ、テロリズムとその思想的支援者たちとの全面戦争を布告したのだ。彼によれ
ば、そうした支援者たちは中東系で、宗教的信条から邪悪な行為におよぶのだという。
 2週間後、悪名高いテロリストとの共謀容疑をかけられた人びとの第一陣を収容するため、オラニエンベルクに最初のテロリスト監禁施設が建設された [2]。愛国主義がたちまち国中に燃え広がって、かの指導者の旗がいたるところに翻り、窓に張り出せるよう新聞にまで大刷りされた。
 テロ攻撃から4週間もたたないうちに、一躍人気上昇した指導者は、憲法で保障された言論の自由、プライバシー、人身保護義務を一時停止する立法措置を強行した。テロと戦い、テロの温床となる哲学を打ち破るというのが立法の名目であった。それにより、警察が郵便物を検閲し、電話を盗聴すること、テロ容疑者
を訴状も弁護士の接見もなしに投獄することが可能になった。テロの疑いがあれば、警察は捜査令状なしに人びとの家に忍び込むことが許された。
 愛国主義的な響きの「民族と国家の防衛のための大統領令」に対し、法律家や市民的自由を重んずる人びとから上がった異議申し立ての声を封ずるため、彼は4年間の時限条項を書き込むことに同意した。つまり、テロリストによって引き起こされた国家危機が4年以内に解消した場合、国民の自由と権利は回復し、警察組織の権限もふたたび制約されるという条件である。のちに国会議員たちは、議決の投票前に法案を熟読する暇がなかったと述べた[3]。
 反テロ法が成立するやいなや、彼の国家警察は不審な人間を逮捕し、弁護士の接見も裁判もさせないまま身柄を拘束する一大作戦に乗り出した。最初の1年だけで数百人が葬られ、それに異議を申し立てる人びとの声は主流メディアによって封じられた。メディアは、あまりにも大衆的人気の高い指導者の機嫌を損ね、近寄らせてもらえなくなることを怖れたのだ。おおやけの場で指導者に反旗を翻す市民の数は少なくなかったが、新たに権限を強化された警察の警棒や催涙ガスや牢獄の威力をたちまち思い知らされたり、指導者の演説から遠く引き離され、声を上げても聞こえない抗議エリアに囲い込まれたりすることになった。(そのかん、彼はほとんど毎日のように、公衆の面前で話をする特訓を受け、声音や身ぶりや表情の操作を学んで、みごとな雄弁家へと変身していった。)

 テロ攻撃から1か月のうちに、一人の政治顧問からの助言を受けて、彼はそれまで曖昧な意味しかもたなかったある言葉を多用することにした。国民のあいだに「人種的プライド」を煽るべく、国名を呼ぶかわりに「本土」(The Homeland)と呼びはじめたのだ。レニ・リーフェンシュタール監督による宣伝映画『意志の勝利』に記録された1934年の演説で導入部分に使われて以来、この言葉はおおやけに流布するようになった。狙いどおり、人びとの心はプライドで膨れ上がり、“われわれとやつら”という敵対感情の種が蒔かれた。人びとは自国こそが“本土”で、他の国々はただの外国だと思い込まされた。指導者は、われわれこそが“真の民”であり、国益の対象に含まれる価値があると示唆した。たとえ他人種に爆弾の雨が降り注ごうが、他国で人権が侵害されようが、それでわれわれの生活が向上するなら、さして気にかけるまでもない、と。
 こうした新しいナショナリズムに乗じ、また彼がますます軍国主義を強めることに対するフランスの不満を逆手に取って、指導者は「わが国の国益を優先しない国際機関など無意味で無用」だと主張した。そうして1933年に国際連盟から脱退し、世界規模の軍事覇権を確立するためにイギリスのアンソニー・イーデンと二国間海軍軍備協定を結ぶ。
 彼の宣伝大臣は一大キャンペーンを仕掛けて、指導者が深い宗教性をもった人間で、その動機はキリスト教に根ざしていると、国民に信じ込ませた。彼は国中にキリスト教を復活させる必要を説き、それを「新しいキリスト教」(New Christianity)と呼んだ。彼の躍進する軍隊では、すべての兵士が「Gott Mit Uns」、つまり「神はわれらとともに」と宣言したベルトの留め金をつけ、大多数がそれを熱烈に信じていた。
 テロ攻撃から1年たたないあいだに、かの指導者は国中の地方警察と国家公安機関が、テロの脅威に対処する明確な意思疎通と、総合的かつ統一的な運用を欠いていると判断した。とりわけ、テロリズムや共産主義に傾きやすい中東系住民と、厄介な知識人および自由主義者が対策課題だった。そこで彼は、本土安全保障を管轄する単一の国家機関新設を提案した。それまでばらばらだった1ダースばかりの警察・国境警備・捜査機関などを、一人のリーダーに統括させるというのである。
 彼は一番の腹心を新しい組織のトップに据え、本土防衛のための中央安全保障局と呼ばれるこの組織は、政府の中で他の主要省庁に匹敵する役割を与えられた。
 彼の広報官は、テロ攻撃以来「ラジオと新聞・雑誌は政府の意のまま」と述べた。中央安全保障局が不審な隣人の密告を大々的に奨励しはじめたため、指導者の正当性に非を唱えたり、その数奇な経歴に疑問を差しはさんだりする声は、国民の記憶から抹殺されることになった。この計画は大成功をおさめ、やがて一部の“裏切者”の名前がラジオで読み上げられるほどになった。糾弾された“裏切者”の多くは、指導者に公然と異を唱えた政敵や著名人で、いまや彼の脅迫と財界同調者の経営支配に縛られて大政翼賛化したメディアは、それらの人びとを格好の餌食にした。
 権力強化には政府内だけでは不十分と判断した彼は、産業界に手をのばして連携を図り、最大手企業の元幹部らを政府の重要ポストにつけた。こうして、本土で暗躍する中東系のテロリストと戦うと同時に、国外での戦争に備えるべく、多額の政府支出が企業に流れることになった。彼は自分に近い大企業に、全国のメディアや工業関連会社を買収するよう奨励した。とくに、不審な中東系住民の所有する事業が狙われた。産業界との結びつきは強力で、ある系列企業は国家の敵を収容するための大規模な監禁施設建設を巨額で請け負った。やがてその数はもっと増え、産業界を潤していく。
 しかし、テロ攻撃のあとしばらく平和な時期が続くと、政府の内外でふたたび異議申し立ての声が高まった。学生による活発な反対運動が起こり(のちに「白バラ会」と呼ばれる)、周辺諸国の指導者たちは彼の好戦的言辞への嫌悪感を表明するようになった。彼には何らかの囮(おとり)が必要だった。政府内で暴露
される縁故がらみの企業腐敗や、彼自身の権力基盤をめぐる不正疑惑、さらには自由主義者たちが盛んに追及した、適法手続きも弁護士や家族との接見もなく拘禁される人びとへの憂慮から、国民の目をそらす材料である。
 メディア操作を得意とする右腕とともに、彼は国民に小規模で限定的な戦争が必要だと納得させるキャンペーンに乗り出した。ちょうど隣国の一つには、不審な中東系住民が大勢住んでいた。彼の国のもっとも重要な建物に火をつけたとされるテロリストとのつながりは、ごく曖昧なものだったが、国の存立と繁栄になくてはならない資源を擁していた。彼は記者会見を開くと、その隣国の指導者に対して最後通告を突きつけ、国際社会に大きな波紋を起こした。自衛のために先制攻撃の権利をもつと主張する彼に、当初ヨーロッパ諸国は非難を浴びせた。過去においてそんな強硬論は、シーザーのローマやアレキサンダーのギリシアのごとき世界帝国をめざす国々だけが主張したものだ、と。
 数か月間、ヨーロッパ諸国との激しい議論と裏取引が続いたすえ、最後に彼がイギリスの指導者と個人的に交渉して、ある約束を取りつけた。軍事行動がはじまったあと、英国のネヴィル・チェンバレン首相はイギリス国民に向かって、かの指導者の新しい先制攻撃ドクトリンを認めれば、「われらに平和の時代」が訪れるだろうと語った。こうしてヒットラーは、戦時指導者がしばしば謳歌する圧倒的な国民の支持のもと、オーストリアを併合した。オーストリア政府は転覆され、親独の新しい指導者にすげ替えられて、ドイツ企業がオーストリアの資源を支配しはじめたのである。
 侵略を非難する人びとに対し、ヒットラーは演説でこう答えた。「一部の外国紙は、われわれがオーストリアを強奪したという。私にいわせれば、記者連中は死んでも治らぬ大ウソつきだ。私は政治闘争を通じて国民の大きな愛情を勝ち得たが、国境を越えてオーストリアへ入るや、かつて味わったこともないほどの愛が注がれるのを感じた。われわれは圧制者としてではなく、解放者として赴(おもむ)いたのだ」。
 彼の政策に異議を唱える人びとに対処すべく、政治的手腕に長けた顧問たちの助言を受けて、彼と配下の報道関係者は、彼と彼の政策を愛国主義および国家そのものと一体化させるようなキャンペーンに乗り出した。テロリストやテロ支援者たちに、国を分裂させたり、国家意志をくじいたりできると思わせないためには、国としての統一が不可欠だというのが彼らの持論だった。戦時にあっては「一つの民族、一つの国家、一人の総統」しかありえないという理由で、彼らは国策の批判者を国家そのものに攻撃をしかける人間だと糾弾する、国ぐるみの一大報道キャンペーンを張ったのである。彼に異議を唱える人間は「反ドイツ的」ないし「良きドイツ人ではない」とのレッテルを貼られ、国家の英雄たる兵士たちを支持する愛国心がないために、国家の敵を利する者だと白い目を向けられた。それは反対意見を封じ、賃金労働者(兵士の大半はこの階層の出身)と、彼の政策に批判的な“知識人や自由主義者”とを反目させる、彼一流の効果的手法であった。
 にもかかわらず、オーストリアを併合する“小さな戦争”が手際のいい成功に終わり、平和が回復すると、「本土」にふたたび異議申し立ての声が上がった。ほとんど毎日のように、共産主義テロリスト細胞の危険をニュースで流しても、国民を扇動し、反対意見を完全に封じ込めるには十分ではなかった。抵抗者の失踪、自由主義者やユダヤ人や組合指導者への暴力、産業界において帝国の富を産出しつつも、中産階級の生活を脅かす慢性的な縁故資本主義の弊害などが原因で高まる国内の不満から国民の目をそらすには、全面戦争が必要だった。
 それからきっかり1年後、ヒットラーはチェコスロバキアに侵攻する。彼の国はいまや全面戦争に突入し、国家安全保障の名のもと、国内の反対意見はすっかり封じられた。民主主義をめざすドイツ初の実験はそこで終焉を迎えたのだ。
 歴史の回顧を結ぶにあたり、私たちが記憶にとどめるべきポイントがいくつかある。
 2003年2月27日は、オランダ人テロリスト、マリヌス・ヴァン・デア・ルッベによる帝国国会議事堂(ライヒスターク)の爆弾放火70周年であった。そのテロ行為が、ヒットラーを一気に正当な国家指導者へとのし上げ、ドイツ(ワイマール)憲法の改廃をもたらした。ドイツ人の血をほとんど一滴も流さず素早くオーストリア併合を達成するころには、彼はドイツ史上もっとも人気の高い大衆指導者となっていた。その年、世界的な賞賛を浴びた彼は、タイム誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」に輝く。
 おおかたのアメリカ人にとって、彼が本土安全保障のために設置した機関は、その名称 Reichssicherheitshauptamt(帝国防衛省)と Schutzstaffel(親衛隊)から、悪名高い後者の頭文字「SS」だけで頭に刻まれている。
 もうひとつ私たちの記憶にあるのは、ドイツ人が「雷撃戦」(Blitskrieg)と呼ばれる激烈な戦闘形式を編み出したことだ。それは一般市民に凄まじい犠牲をもたらすいっぽうで、国家指導層にとってはきわめて満足度の高い「衝撃と畏怖」の効果を生み出した。アメリカ防衛大学出版局が1996年に刊行した『衝撃と畏怖』の執筆陣は、そう記している[4]。
 当時を振り返り、アメリカン・ヘリテージ・ディクショナリー(1983年版)は、ヒットラーがドイツ最大級の企業群と提携し、戦争を権力維持に利用することによって、ドイツ民主主義が変質した結果生まれた政府の形態を次のように定義している。「ファシズム:(名詞)極右独裁の統治システム。国家と企業上層部の癒着に、好戦的ナショナリズムが結びついて生まれるのが典型」経済的・政治的危機に直面するいま、私たちは世界大恐慌の被害がドイツにもアメリカにも等しく襲いかかったことを忘れてはなるまい。けれども、1930年代を通じてヒットラーとルーズベルトは、それぞれの国力と繁栄を回復させるために、まったく異なる道を選んだ。
 ドイツの選択は、政府が企業に肩入れし、社会の最富裕層に恩恵を与え、公共部門の大半を民営化し、反対意見を封じ、憲法で保障された諸権利を人びとから奪い、戦争の継続と拡大によって繁栄の幻想を生み出すことだった。アメリカは最低賃金法を可決して中産階級を力づけ、企業の権限を抑えるために独占禁止法を実施し、企業と最富裕層への増税を行ない、社会保障制度を創設し、国家社会基盤建設と芸術振興と森林再生の計画を通じて最終雇用を確保した。
 合州国憲法がまだ健在である限りにおいて、今回の選択も私たちしだいだろう。


訳注
[1] ヒットラーは若いころからオカルティズムに興味をもち、さまざまな秘教組織にかかわったとされる。その中にはいわゆる悪魔崇拝の結社もあった。ただし、「頭蓋骨と肢骨」の儀式を行なったのがどんなグループだったか訳者には不詳。いっぽうブッシュ大統領は、エール大学在学中に文字どおり「Skull & Bones」と呼ばれる学生秘密結社に入団した。19世紀に遡るこの秘密結社は、父ブッシュ大統領も含む会員を通じ、米国社会上層部に大きな影響力をおよぼしてきた。やはりこの結社に属していたブッシュ現大統領の祖父プレスコットは、ナチスに軍需物資を流す事業で財をなしたといわれる。

[2] 最初に建設された強制収容所のひとつ。

[3] 9・11直後にアメリカ連邦議会で成立し、同種の内容で各種の基本的人権を制限する「愛国者法」(USA Patriot Act)についても、政府からの法案提出がぎりぎりまで引き延ばされたために、国会議員から同様の不満が出た。

[4] ハイテク兵器を駆使するイラク攻撃緒戦の計画は、この著作にもとづいていた。

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トム・ハートマン Thom Hartmann
1980年代のドイツで暮らし、働いた経験をもつアメリカ人。著書に Unequal Protection、The Last Hours of Ancient Sunlight ほか多数。本稿の著作権は筆者に属するが、このクレジットを添えれば紙媒体・電子メール・ウェブサイトなどへの転送・転載は自由。

When Democracy Failed: The Warnings of History
by Thom Hartmann
http://www.commondreams.org/views03/0316-08.htm

(翻訳:星川 淳/TUP)

http://www.ribbon-project.jp/SR-shiryou/shiryou-14.htm
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